中国西域紀行3

中国西域紀行(3)トルファン

中田 良一

新疆ウイグル自治区トルファンの火焔山は異形な姿だ。草木は見当たらない。むき出しの赤い山脈が、炎のように立ちはだかっている。日差しも風も全てが熱い。最高49度に達したことがあるという。過酷な環境にもかかわらず、この地は天山南路と北路が交わる要所だった。火焔山の南麓、高昌故城は5~7世紀を支配した高昌国の城跡。玄奘三藏が説法したという寺院その中の仏像もことごとく破壊され、栄華を偲ばせるのは、3廃墟の広漠さだけだ。この城の人々が葬られたアスター古墳群はトルファンの極度の乾燥が幸いし、人々の暮らしを蘇らせる品々が残っていた。トルファンは中国一の葡萄の産地。2000年以上前、中央アジアから伝わったシルクロードの産物だ。トルファンの葡萄がどこよりも甘くて美味しいのはこの暑さと風のおかげ、同じ木を別の土地に植えても同じ味にはならない。この過酷な自然の産物なのだ。同時にこの地に生きる人々の知恵と労苦が隠れていた。「カレーズ」という地下水路。天山山脈の雪解け水は、オアシスに届くまでに荒れた砂礫の大地で涸れ果ててしまう。そうさせないために、2000年も前から、山の水源から数キロにもわたり暗渠で繋ぎ、水を導いているのだ。街の水汲み場に降りてみて、その流れをみた。カレーズの総延長は5000キロという。気の遠くなるような労力がつぎ込まれた。トルファンというオアシスは、過酷な自然に抗する人間の営為の賜だった。
翌日は10月1日国慶節、高速鉄道に乗るため少し早めに駅に向かった。しかしこの判断は甘かった。切符は事前に購入済みだったが、沢山の人が駅に集まっていて、このまま順番を待っていたのでは改札を通ることが出来ない。同行の息子は駅員このままでは電車に乗り遅れるとスマホの翻訳を使って訴えた、面倒がられ、諦めろと言う態度しか返ってこない。しかし諦めず何度も訴え、聞いて貰えるまで粘った。最初の駅員はたらい回しに次の駅員に繋いだ。そこでも訴え続けた。すると根負けした駅員が沢山の人が並ぶ間をとおって特別に入り口を作ってくれ長い行列を飛ばして改札を無事通過させてくれた。予約の1等席はとりやめで全て2等席となった高速鉄道(新幹線)に乗って烏魯木斉からトルファンに向かった。平坦な砂漠地帯を走るので、車両は揺れが少なく快適だった。
トルハンの駅を降りると、警察官(公安)の検査が行われたが、パスポートを見て外国人だと分かると、公安事務所まで連れて行かれ、そこで別の警察官から再度検査が行われた。無事に検査を終えホテルへ向かうため駅前のタクシーを待っていたら、また警察官が来てタクシーに乗る順番を指示し始めた。それが、待っている順番ではなく警察官の気ままな判断で決めているため、私たちの順番が回ってこない、我慢の限界に達し、手動動作で訴えると、直ぐに乗車できた。運転手にスマホで表示したホテルを見て貰うと、早速走り出した。ところがスマホが示す矢印は明らかに違う方向を示している。あわててスマホを確認して貰ったが、どうやら道順が分からないらしい、その上スマホが語る普通話は通じないようだ。息子はタクシーを止めて貰い運転手の横に座り、指先指示でなんとかホテルに到着した。大分余分に走ったと思うのに、悪びれた様子もなく、ちょっとムカっときたがメーターどおりの料金を支払った。息子に「少し値切っても良かったのでは?」と問いかけると、「いつもあのスタイルで仕事をしているのだと思うよ、悪気はないんだ。地元の純朴な運転手さんだよ。」そう言われると、確かに大人気ない、旅行に出ると、つい騙されまいと、警戒心ばかりが先に立ち、土地特有の生活スタイルを味わうゆとりを無くしていた。ホテルで一休みしてから、トルファン博物館を見学。ここでは更に多くのミイラの展示があり、恐竜の化石、高昌故城跡遺跡を写した写真等豊富な展示物があった。最近の中国は博物館の展示を通じて、国民が中国の歴史をしっかり学んで欲しいという意図があるようだ。今では博物館はどこへ行っても良く整備され、写真、イラスト、人形等の造形で作られ、大変分かりやすい展示になっている。しかも入場は無料だ。
 翌日、タクシーを一日借り切って火焔山の奥にある吐谷溝景区まで足を伸ばした。さすがに今までの景勝地に比べ見学者はすくなかったが、それでも中国人の観光客は何組か見かけた。そこには昔ながらの生活を営むウイグル人の村があり、雪解け水を引き生活用水と農作物の生産に使われていた。中国最古のイスラム寺院が現役で役割を果たしているとのこと。ここで売られているハミ瓜はなんと、たったの5元だった。街に出せば10倍以上で売れるのに、と思ってしった。その後シルクロードのオアシス都市カレーズ楽園を見学した。掘削機械等無い時代に地下水をくみ上げ利用していた技術と知恵に感服した。次に孫悟空で有名な火焔山を見学した。人工的に作られた展示物ばかりなので、落胆した。待合室で休憩しているところへ、運転手さんから「財布を落としませんでしたか」と問われた。実はカシュガルの動物市場の帰りにタクシーの中に忘れてきていた。直ぐに気がついたものの乗車したタクシーのナンバーは不明のため、直ぐに電話で財布の中に入っていたカード類の停止の手続きをとっていたのだ。「公安」から宿泊先のホテルへ財布が見つかったという連絡があった。というのだ。すっかり諦めていただけに公安の親切な対応に驚きと感謝の気持ちになった。あの時の運転手さんが親切に公安へ届けてくれたのだろうと思った。しかし、じっくり考えてみると、運転手さんは私たちのことは何も知らないはずだ。……そこで思い当たった。公安の検査の度にパスポートの写しを撮られ、スーパー等での買い物時も手荷物は毎回検査され、パスポート(中国人は身分証明書)の確認をもれなく行っていた。また主要場所には監視カメラが設置されていた。
これだけの材料が揃えば私たちの行動は全て掌握されていたのだ。そうと分かった途端今度はゾッとした気持ちになった。次は最後の行程である。

 


 中国世紀紀行  (4)莫高窟
高速鉄道柳園で下車、バスで1時間余乗り敦煌に到着したが、途中キリンが首を伸ばしたような石油採掘の機械が林立している姿を圧倒されながら眺めた。昼頃ホテルに到着し、その日は昼食に驢馬肉の麺を堪能した。バスを利用して敦煌のきれいな町並みと、鳴沙山を見学した。月の沙漠を連想させる、美しい曲線美の砂山と、砂漠の中に忽然と表れた泉、「月牙泉」砂漠の中に水と緑に隣接して趣のある建物を見学した。
ホテルの従業員と会話をしてみるとちゃんと通じた。気をよくして近くの食堂で話していたが通用しない、指さし確認で無事夕食にありついた。小籠包と羊肉の串焼きを食べたが、美味しかった。麺類と小籠包の美味しいのは、小麦の質の違では、と思った。
莫高窟は広漠とした砂漠の奥にあった。大きな川幅を持つ橋を渡って、記念館と博物館の先に砂の塊のような丘が長く連なっている。それが莫高窟だった。
外国人の入場券は258元だが、特別窟は別に100元以上必要だが、窟内は暗く見にくいため高い料金を出して特別窟を見る必要は無い。隣接した展示室にレプリカがある。そこで、じっくり見ることが出来る。彩密で鮮やかな色彩の壁画は、さすが世界遺産と思わせる感動を与えてくれた。
その感動に浸りながら帰国の途についた。8泊9日の強行な旅だった。西域はめまぐるしい変化を遂げつつある。体力が続けば、再度訪れたい処だ。